2016/12/31

本100冊からの10選









2016年に読んだ本はおよそ100冊.5年前には年間数十冊だったのを思うと,読むスピードは数倍になっている.100冊のリストを眺めて,大雑把にジャンル分けしてみる.

小説:25     エッセイ:15     社会(政治,経済,歴史):16     古典:11     ことば:9     科学:7     美術:6     災害(戦争,公害):5     知的生産:3     アニメ:3

科学はわずか7冊で,小説やエッセイが多い.私が読書に求めているのは専門知識ではなく,幅広い考え方や体験のよう.趣味として読んでいるのは「ことば」や「美術」.教養としては「社会」や「古典」.上記10のジャンルから,1冊ずつ紹介してみる.

小説:百年の孤独/ガルシア=マルケス
何世代にもわたる一つの家系の物語.百歳を優に超える人物も登場し,現実と非現実の区別がつかなくなる.ひたすら独り言をいう人物もあり,ひとつの文が3ページに及んだのは印象的.傑作として扱われるこの本は,一読しただけでは計り知れない世界を示してくれる.

エッセイ:国境のない生き方/ヤマザキマリ
古代ローマと現代の日本をお風呂でつなぐテルマエロマエ.マンガを読んで,発想の面白さに舌を巻いた.しかし著者の半生には,マンガ以上の魅力があった.イタリアと日本で育まれた人生観は,たいへんな教養と経験に支えられている.地球人がぴったりくる,豊かな人生.

社会:18歳からの民主主義/岩波新書編集部
選挙権が18歳以上に改正されるのを機に,18歳~101歳がメッセージを寄せる.姜尚中さんは政治学者でありながら,在日韓国人として選挙権が与えられないことに触れる.今年亡くなられたむのたけじさんは,人生を5つのフェーズに分け,どの段階でも政治と関わりがあると語る.年齢立場は違えど,まずは関心を持つことの大切さを知る.

古典:オイディプス王・アンティゴネ/ソポクレス
スフィンクスの問い,エディプスコンプレックスなどは現在でも通用することば.何千年も受け継がれてきた物語は,人間の普遍的な性質を教えてくれる.人の疑いを解くことは難しく,悲劇は繰り変えされる.しかし絶対と定められた運命にも,抗わずにはいられない.

ことば:ちいさな言葉/俵万智
わが子は天才ではないだろうか.きっとどんな親も一度は抱く感情である.ことばのプロである著者でさえ,わが子の視点には驚きを隠せない.「揺れながら前へ進まず子育てはおまえがくれた木馬の時間」短歌と相性の良いツイッターも始めながら,息子と過ごすみずみずしい日々.

科学:想像するちから/松沢哲郎
サルよりも人間に近いチンパンジー.その行動や生態を研究することで,どこまでが人間と共通し,どこからが人間に特有の性質なのかを明らかにできる.チンパンジーは片足を失っても絶望しない.その日暮らしだからだ.人間は絶望してしまう.しかし明日を想像する力があるから,希望も持つことができる.人間とは何かを考えさせてくれる.

美術:気まぐれ美術館/洲之内徹
画廊を経営した著者が記すのは,絵の辿る数奇な運命.一枚の絵にまつわる人間模様,絵から生まれる人間関係もある.美術館で鑑賞する作品だけが絵ではない.人から人の手へ移動する,そんなケースが実は多いのかもしれない.絵と画家の魅力を存分に伝えている.

災害:三陸海岸大津波/吉村昭
明治,昭和の大津波を中心とした記録文学.東日本大震災より前に出版されている.昭和の大津波において,明治の経験は十二分には活かされなかった.地震の発生時間が違うから,津波は来ない,という迷信のため,避難は遅れてしまった.来る災害は防くには,経験に学ぶだけでは難しい.

知的生産:知的トレーニングの技術/花村太郎
様々な文献を示していて, 独学にはよいかもしれない.読書術では全集通読が勧められる一方,「万巻の書をまえにして,全部読破してやろうなどという考えは放棄せよ」とも語る.私が読んだ100冊は,図書館の棚一列にも及ばない.だからこそ,何を読むか.

アニメ:言の葉の庭/新海誠
雨の日にだけ出会える二人.万葉集の句が想いを代弁する.大ヒット中の「君の名は。」は映画と小説でほぼ同内容を扱っている.「言の葉の庭」は映画が40分ほど,しかし小説は2時間以上の内容がある.梅雨時に観たい,読みたい作品.

オリンピック選手は,4年間のトレーニングを一日単位で計画するらしい.読書は明確なゴールがあるわけでなし,メダルがもらえることもない.しかし日々の読書が積み重なれば,相当量のトレーニングにはなる.来年は何を読もうか.

2016/12/10

献血回数=年齢












はじめて献血したのはおよそ20歳,献血バスが大学へ来たときだった.簡単な問診と検査の後,400mlの全血献血.自らの血液型を調べていなかった私は,そこで初めてA型と知ることができた.

以来献血は年数回,27歳の今日まで続けている.献血ルームには飲み物,アイス,マッサージ機まであり,快適な環境が整えられている.献血回数が10回に達すると,記念品として”おちょこ”をもらうこともできた.

そんな私よりも,たくさん献血をする人がいる.友人の一人は,居住地に限らず,出先の献血ルームにも足を運ぶらしい.全国にネットワークがあり,献血する意思さえあればできるとはいえ,一目置いている.

献血をする意味を私なりに考えると,まずは健康の確認がある.簡易的ながら,血液に関する数値(赤血球数,コレステロールなど)を知ることができる.もうひとつは,幸い健康である私が,血液を必要とする方の,助けになることができる.

これまで2回ほど,うまく献血できなかったことがある.冷え症により,血液が流れにくいためもあるらしい.献血に不安を覚える人は,成分献血(血しょう,血小板)も選択肢に入れてほしい.400mlよりは,成分献血が体への負担は少ない.

献血ルームでは,心が和む場面にも出会う.壮年の夫妻が揃って検査を受けていると,妻は血管が細めで,献血を見合わせることになった.夫はそれを励まし,妻は待合室で彼を待つ.二人の健康さ,また幸せさが感じられる.

血液は長期保存することができないため,常に一定数の献血が求められる.そのため,複数回献血する人には特典が用意されている.私が頂いた10回記念の他,30回,50回記念がある.60歳以上+50回だと感謝状が贈呈されるらしい.

献血者数が減少する,寒い冬.ひとりでも,誘い合っても,はたちでも,60歳以上でも.献血を重ねる人が増えるならば,記念の”おちょこ”がお酒を一段おいしくするかもしれない.

2016/12/02

手帳のある年ない年












「できる人は手帳を使っている.」とはよく目に入る言葉.週間・月間・年間のページから予定を把握し,過去の反省を未来に活かせるならば,誰もが「できる人」になれるに違いない.

私も”時間を管理しよう!”という意気込みで手帳を買うまでは良いものの,およそ半年経つと,ただのメモ帳になってしまう.スマホやパソコンに入力する情報が増える今日,手帳との使い分けは工夫が求められる.

手帳の活用法として私が実践するのは,二時間を一単位として,週末に来週の予定を記入する方式(坪田一男:理系のための研究生活ガイド).一週間毎に達成率をチェックすれば,予定を減らしたり,増やしたりできる.

メモ帳としての活用であれば,日々の着想を手帳に書き留め,後でまとめてPCに入力する.スペースを自由に使える手書きのメリットと,パソコンの検索性を考えると,二度手間の価値はあると感じている.

あとは手帳を選ぶだけ.これまで印象に残っているのは,次の3つ.まずは「ほぼ日手帳」,どのページにも,ひらめきの素になるような言葉が綴られている.デザインを選ぶのも楽しい.続いて「モレスキン手帳」,紙質すばらしく,様々書き留めたくなる.

そして「朝活手帳」,スケジュール欄が朝の4時~9時に限られている.そもそも早起きできず,途中で断念.しかし朝起きることのメリット,可能性は十分認識できた.今は7時起きだけれど,なんとか6時を目指したいところ.

試行錯誤の中で,私の好みとしては,時間目盛りが縦のバーチカル手帳.時間のイメージとして,横よりも縦に流れる感覚がある.2017年の手帳は,シンプルな無地の表紙.日々の積み重ねを,よい一年につなげていく.

スマホの手帳機能で,十分代用できると考えたこともあった.しかし,紙の手帳が有する”偶然性”は捨てがたい.パラパラと手帳をめくるだけで,思いがけずアイデアが浮かぶことがある.デジタルにもアナログにも偏向せず,「できる人」への道のりは続く.

2016/10/23

50ページ読書

初めはみかん箱に入れていた本.一つ本棚を買って,安心していたらも一つ二つ.入りきらない本が棚の上に積まれている.「積ん読」は,およそ読書について回る.

昨年まで,読書ペースは月に数冊.たまに古本屋で10冊買えば,積みはどんどん増えていく.怖々棚を眺めれば,数年前に購入して未読の本,途中で挫折した本が並ぶ.趣味とするほどには,読書習慣はなかった.

きっかけは,図書館で借りた講演CD.藤本義一の「言葉と文字」を聴いた.-----20代で作家を目指した彼は,一日に原稿用紙10枚を書き,50ページ本を読むことにした.毎日少なくとも一時間を,自身のために使うことに決めた.

1日1時間も,1年で365時間になる.24時間で割れば,およそ15日にもなる.そうして彼は偶然,医学の本で"人間はどれだけ徹夜できるか"を知る.どんな人間も「15日」徹夜すると,死ぬか狂うかするらしい.

徹夜の連続はできないが,1日1時間ならできる.ゆっくり狂うことができる.自身の習慣を続ければ,きっとプロになれると,彼は自信をつけた.-----私は作家を目指すわけではないけれど,妙に説得力のある習慣を,どうも身につけたくなった.

1日50ページが,私には約1時間.始めてすぐ,試練が訪れる.飲み会からの帰り,ちょうどよく酔って,そのまま寝てしまいたくなる.ギリギリ「ここで寝たら三日坊主!」と思い留まり,寝床で50ページ読んだ.

一度習慣になれば,50ページはさほど苦にならなくなる.旅先で手持ちの本を通読したときは,書店で購入して読むこともあった.「狂う」までの目標,50ページを360回,予想よりも早く到達することができた.

ゆっくり"15日間徹夜した"効用は様々感じられる.まず,自分が敵わない人物を知ること.例えば井上ひさし,蔵書は約20万冊.部屋の床が目の前で抜けるとは,一体どんな光景で,感覚なのだろうか.

次に,読んだ本のネットワークができること.今読んでいる本が他とどういう関係にあるか,ある程度つかまえられる.そして,自分にとって読む意義があるかを見極められること.今のところ理解できずとも,意義のある本は確かにある.

メリットに比べて,おかしいのは「積ん読」が減っていないこと.読書ペースが上がっているのに,むしろ増えてないかと疑うくらい.藤本義一は35年かけて4000冊を読んだらしい.本棚が,想像できない...

2016/09/23

地下鉄ぐらし

仙台に2つ目の地下鉄が開通して,はや9か月.生活をがらりと変える選択肢に対して,沿線に引越し通学する人も珍しくない.私の利用は月数回に止まるが,以前のバスに比べ,天候に影響されない便利さを実感している.

西端の八木山駅は日本一標高の高い地下鉄駅として知られるが,隣の青葉山駅はホームの深さが特徴的である.地上とホームの高低差は100m以上あり,エレベータを除けば5回ほどエスカレータ/階段を利用しなければならない.

利用者の多くはエスカレータに乗って,階段を使う人はまばらである.しかし私は運動のひとつと思って,なるべく階段を利用する.少なくとも学生のうちは,むやみに楽するのは控えておこうという考えも手伝っている.

そう考えるきっかけは,高校の部活,遠征中にあった.席が十分に空いている電車内,私を含め学生は並んで席に座った.すると引率の先生に,「お前ら年でもないのに座るな」と注意された.ひと回り上の先生が立っていては,学生は従うよりほかない.

エスカレータや歩く歩道を見て思い出すのは,ドラえもんの映画「のびたとブリキの迷宮」.機械文明に依存した人間は遂に歩行ができなくなり,常にロボットに頼って生活する.22世紀を待たずとも,あり得る未来だと感じてしまう.

階段からホームに降り,電車に乗る.本を広げながら車内を眺めると,半数はスマホを手にしている.読書を強いるつもりはないが,どうも私は,皆がスマホに熱中する光景が苦手だ.画面を通じた世界と現実の世界,顔を向ける時間はどちらが長いのか.

ガラケーが普及し始めたころ,メール機能に依存してしまう人が問題となった.しかしそれ以上に,老若男女がスマホを手放せない現状は,どこか怖ろしい.本来有機体である人間の注意が,無機体である機械に向かい過ぎてしまうことを危惧する.

スマホ利用が高じれば,姿勢にも悪影響となる.中には首を90度曲げた人もおり,目も当てられない.筋肉博士と呼ばれる石井直方さんは,「歩きスマホは周囲の迷惑となる」というアナウンスに,「自分の首の骨も痛める」の追加を提案している.

電車は10分ほどで目的地に到着し,地上へと向かう.改めて,地下鉄ダイヤの正確さ,速さを想う.この便利さは,階段を歩く不便さを補って余りあるし,読書する機会も与えてくれる.路線2つの仙台で,浅田次郎「地下鉄に乗って」を読むのも面白い.

2016/06/15

プランクトンのすむところ

プランクトンと聞くと,いったい何を思い浮かべるでしょうか.「ミジンコ」や「ミカヅキモ」と聞けば,顕微鏡でみた覚えがあるかもしれません.プランクトンとは,水中や水面に浮いて生活する,小さな生物の総称です.

私が研究しているのは,海にすむプランクトンの一種,浮遊性有孔虫(ゆうこうちゅう)の化石です.そんな小さなプランクトンを研究して,一体何がわかるのか.ひとつは過去の年代(示準化石),もうひとつは過去の環境(示相化石)です.

例えば恐竜の化石がみつかれば,恐竜が絶滅した6600万年前よりも古いことがわかります.一方サンゴの化石がみつかれば,昔は暖かく浅い海であったことがわかります.小さなプランクトンを調べることで,過去の年代や環境を推定することができます.

有孔虫を用いて,当時の海水温を復元することもできます.ここで大切なのが,有孔虫の生息深度(すむところ)です.つまり,どの水深の海水温を反映しているのか.今回掲載された論文(Matsui et al., 2016)は,有孔虫のすむところを扱っています.

現在生きている浮遊性有孔虫は,表層種(50m以浅),中層種,深層種(100m以深)と水深に応じてすみわけを行っています.化石となった有孔虫のすむところは,複数種の化学分析によって,相対的に表層種,中層種,深層種と区別することができます.

今回対象とした浮遊性有孔虫 D. venezuelana は長い期間,広い範囲の海洋にすんでいたため,よく古環境復元に用いられる種です.しかし,"すむところ"には謎がありました.3400~2800万年前には表層種であったのに,2400~600万年前には中深層種に属しているのです.

つまりD. venezuelanaは,2800~2400万年前に"すむところ"を深くした可能性があります.しかしこれまで,「いつ」深くなったのか,「なぜ」深くなったのかはわかっていませんでした.そこでD. venezuelanaの化学分析を行い,あわせて有孔虫の群集を調べました.

まず,複数種の化学分析により,D. venezuelanaの"すむところ"が約2630万年前に表層から中深層へと深くなったことが分かりました.2800~2400万年前の「いつ」深くなったかを特定することができました.
さらに有孔虫の群集を調べた結果,総数が多い群集(図右)から,総数が少ない群集(図左)に変わり,群集の組成にも差がみられました.こうした群集の変化から,「なぜ」深くなったのかを考えることができます.

今回用いた化石はペルー沖の試料であるため,現在のペルー沖について考えてみます.通常は赤道域の貿易風によって,湧昇流(深層の水が表層へと運ばれる)が発生しています.そうして深層の栄養が表層にもたらされるため,プランクトンの総数が多くなります(図右).

しかしエルニーニョ現象で貿易風が弱まると,湧昇流が弱くなり,結果としてプランクトンの総数が減ります(図左).現在の海洋と約2630万年前の海洋を同一に議論することはできませんが,群集の変化に基づくと,湧昇流が徐々に弱まった可能性があります.

D. venezuelanaの"すむところ"が深くなったことと,湧昇流の弱まりを合わせて「なぜ」を考えます.表層にもたらされる栄養が減少したことで,そこにすんでいたD. venezuelanaには栄養が足りなくなった.栄養を求めて,D. venezuelanaは"すむところ"を深くした,と考えることができます.

今回の研究は,次のような点に役立ちます.(1)D. venezuelanaを用いて海水温などを復元する場合に,どの水深の情報なのかが明確になる.(2)約2630万年前に起きた環境変動について理解する助けになる.

小さなプランクトンがすむところを変える.一見小さなことに思えます.しかしプランクトンを食べる生き物をたどっていけば,いずれはクジラなど大きな生物にも影響します.小さなプランクトンに秘められた過去.興味をもたれた方は以下の書籍をどうぞ.

おすすめ図書:
0.1ミリのタイムマシン/須藤斎著
ミクロな化石、地球を語る/谷村好洋著

2016/05/26

アウトプットのすすめ









ここ1か月で,6つの美術館を訪れた.作者のエネルギーが集中した作品を鑑賞するのは,やはり見る側にも多くのエネルギーを必要とする.インプットが重なると,どうもアウトプットの圧が高まるようで,自分でも何か描きたくなってきた.

インプットとアウトプットの関係は,片側交互通行の道路だと私はとらえている.どちらか一方だけ車を流し続けると,すぐにもう一方が渋滞してしまう.交通整理を行う人の判断で,片側を流し,続いて反対側を流す必要がある.

情報の洪水と呼ばれる現在,とかくインプットがアウトプットより多くなりがちである.テレビや新聞だけでなく,スマホひとつで多くの情報にアクセスできる.一方で情報の速度は加速し,今日のニュースが一週間後も報道される可能性は小さい.

情報の海に流されてしまうと,人は泳ぐことができなくなる.インプットがあまりに多ければ,人は考えることをやめてしまう.流されないためには情報の取捨選択が求められ,その上で初めて情報の発信が可能になる.

反対に,アウトプットがインプットを上回るのはどうだろう.限られた水を様々に用いようとすれば,自然使い回さなければならなくなる.ネットニュースやハウツー本の一部に散見するような,内容の薄い発信になってしまう.

インプットとアウトプットの割合を近づけることが,私の目指すところである.インプットを取捨選択するとともに,アウトプットを意識して行う.このブログも,アウトプットのひとつとして書いている.

『知識を鍛えあげるには,常にアウトプットして,人とコミュニケーションすることが必要』とはヤマザキマリ著「国境のない生き方」にあった.教養を身につけるだけでは不十分で,日常的に考えを発信する必要がある.

コンピューターが人間の仕事を奪いつつある現代において,歩く辞書は以前ほど重用されない.人工知能による創作も時間の問題ではあるが,人間らしさとは何か,アウトプットにこそ求められるのではないかと私は考えている.

ブログを書くことで,文章力を少しずつ磨いているように感じる.絵に自信は全くない私も,描くことが何よりもの訓練と信じて,絵を描いてみたい.そうして,インプットに応じたアウトプットを心掛けていく.

2016/05/03

21年目のテスト









小中高大,4つの教育課程を過ごして,いよいよ最終学年を迎えた.「なんでそんなに勉強しているの?」と周囲からはよく聞かれる.学生=勉強であるなら,テストもまた,学生につきものかもしれない.私も20年の学生生活で,様々な”テスト”に接してきた.

小学校に入学して最初のテストは,10点満点の漢字ドリル.10点をとると,先生が花マルをくれた.大きなマルは,子どもごころにうれしかった記憶がある.いつしかテストは100点満点となって,みんなが結果に一喜一憂していた.

中学校では通常のテストに加え,よくコンクールが開催された.漢字や英単語を覚えるために,ノートを文字いっぱいに埋めた.当時手書きした単語は,今でもすんなり書くことができる.高校以降に習った単語の忘れ具合をみると,反復学習の効果は大きい.

高校に入ると,大学受験を見据えてテストの重要性が一層高まった.難易度も高くなって,赤点をとることもあった.テストの上位者が貼りだされる仕組みで,自分の名前かと思うと,名字が一緒の友達だったりした.

小中高のテストについて共通項を挙げるならば,ひとつはみんなが同じテストを受け,比較可能であること.軸はひとつで,点数の高い方が優れている.もうひとつは「答えのある問い」であること.問題集にも必ず解答集やヒントが付いている.

しかし大学に入ると,まずテストの軸が複数になった.専門分野ごとに受けるテストが異なり,隣の学生と単純に成績を比較することはできない.さらに先生側も,テストで良い点をとることをあまり求めない.受験勉強とは異なる”勉強”が求められた.

専門分野のテストを受ける一方で,大学3年次には研究室に配属された.教員から与えられたテーマについて,教科書やネットで関連する内容を探す.教科書の記述も,ネットの件数も驚くほど少ない.初めて,「答えのない問い」にぶつかったことに気付いた.

「答えのある問い」から「答えのない問い」へ.テストでいえば,点数欄がなくなってしまった.知識を問われるのではなく,思考力が要求される.卒論,修論を通じて,考え得る解答を提出する.解答に向かう道は曲がりくねり,むしろ間違えることが,筋道を示すこともあった.

いつからか私は研究者を志望し,博士課程に進んだ.修士課程までとの違いは,教員がすべてのテーマを与えてはくれないこと.学生は,ある程度独力で課題を設定する必要がある.「答えのない問い」から「問われることのない問い」へ.テストを受ける側から,作る側へ.

3種類の問いは積み重なっている.「答えのある問い」に答え,知識を身につける.その知識をもって,「答えのない問い」に挑む.多くの問題解決を通じ,何が問われていて,何が問われていないかを把握することができる.

問題解決力,課題設定力の向上を目指して,21年目のテストに臨む.「なんで勉強しているの?」という問いへの答えはあるか,それともないか.卒業するころには,自ら納得できる答えが出せるかもしれない.

2016/04/03

7つの海外

パスポートの作成は2010年.「すぐ海外行くのに,パスポートがない!」という夢をみたのがきっかけ.渡航予定なしの作成に,係の人には不思議がられた.

それから2年,初海外は研究航海への乗船だった.バミューダ諸島から大西洋を北上し,カナダのニューファンドランドへ.最初の入国審査で,私はほぼ話すことができず,別室に案内された.係官に「練習だと思って話してごらん」と促され,通過できたのは苦い思い出.

船上での2か月間は,10カ国以上の研究者やスタッフとの共同生活だった.学ぶことはたくさんありながら,人間の多様性,共通語としての英語の重要性を強く感じた.世界の広さと,自分の小ささ.世界地図のスケールを,認識し直した.

初海外の印象薄れぬまま,2013~15年には,研究試料採取のため,3度ドイツ・ブレーメンを訪れた.街の建築物を眺めるだけで,否応なしに感じる"西洋"と"東洋"の差.相容れない文化の差異は,同時に両者の対等性を意識させた.

ブレーメンの路面電車を利用すると,車内には数えきれないほどの言語が行き交っていた.以心伝心でないコミュニケーションが,この場ではどうしても必要になる.およそ単一言語の日本と,またしても違いを感じた.

昨年から今年にかけては,それぞれの理由で3度アメリカへ渡航した.ヨーロッパとも違うのは,圧倒的に国土が広いこと.沙漠など,人気のない土地も多く,車社会になるのも納得した.よくもわるくも,日本の狭さを再認識できた.

一方で街を歩けば,物乞いをする人など,格差が明らかにみられた.個人の自由,豊かさを求めた先に格差があるならば,日本の辿る道も似通ってしまう.人種のるつぼの中で,日本人として考えさせられることは多かった.

7度の海外経験はいずれも,実感の伴った知識を私に与えてくれた.世界を知ることで,日本を知る.他者への寛容さも,一貫して養われた.前だけみても進めるけれど,ときに立ち止まって周囲を眺めることで,視野が拡張される.

海外への窓としてのパスポート,日本人の保有率は2割ほどという.井の中の蛙も,窓があれば大海を知ることができる.大海の存在は,井戸の有難みも教えてくれる.井戸の外を知り,認識を改め続けたい.

2016/03/11

読書欲

読書を食事に例えるならば,まず適量が望まれる.読まなさ過ぎは,栄養不足になってしまう.読み過ぎは,ある程度まではおいしいけれど,度を越すとまずい.

量よりは,バランスに気を配るべきかもしれない.偏食ー偏見は避けるべきであって,食わず嫌いは自分の視野を狭めてしまう.幕の内弁当を選ぶのと,ファストフードで済ますのでは,自然と違いが表れてくる.

そういう私の読書歴は,それほど長くない.小さい頃,絵本はよく読んだらしいものの,中学高校では数十冊しか読了していない.絵本と文字中心の本には,境目があった.再び本を読み始めるのは,大学入学後.斎藤孝著「読書力」がその入口であった.

「読書力」を手にしたのは,高校時の課題図書として.感想文を書くのに,私は50ページも読めなかった.それが悔しかったのか,大学1年生にして,再びその本を開き始めた.本を読まない人が多い現状を嘆き,読書のメリットについて,多くの例を紹介していた.

斎藤孝は読書”力”の定義として,「文庫100冊,新書50冊」を挙げた.そして,彼の薦める100冊が,巻末のリストに並べられていた.本1冊読むのにも苦労していた私にとって,まさに桁違いの”力”は,あこがれになり,目標となった.

はじめは短編から読み進めた.「O・ヘンリ短編集」はユーモアに富んでいて,読書が実に楽しく感じられた.中編で印象に残るのは,「太陽の子」や「天平の甍」.時代の異なる出来事について,本は多くを語ってくれる.長編の「アンナ・カレーニナ」を読み終えたときは,1500ページに勝る重みがあった.

そして大学4年生になって,読書”力”を獲得した.私にとって100冊とは,100枚のきっぷを手に入れるようなものであった.短編から長編まで本が分かれるように,近距離きっぷから長距離きっぷまで.見落としがちだったり,見られなかったりしたものを,目にすることができた.

読書に伴うよろこびとして特筆すべきは,並行して読む複数の本に,偶然同じテーマが扱われているとき.そして本の世界の記述が,現実の出来事と関わるとき.読書の継続の先には,セレンディピティが待っている.

読書”欲”が強くなった私は,本棚に積ん読(つんどく)をしている.数えるとおよそ80冊はある.食べ物では傷んでしまうところ,本には賞味期限がないから,心配していない.

2016/02/29

ワンデーノート








小3の年,ワンデーノートなる宿題があった.一日の記録から,旅の思い出,創作物語まで.とにかくジャンルは問わずに,毎日何かを書く.最初は何を書いたものか悩むものの,習慣になると苦ではなくなってくる.

先生は日々ノートにコメントをくれる.そして”合格シール”を貼ってくれる.ためた合格シールの枚数に応じて,賞状がもらえるごほうび.子どもながらに,シール欲しさにがんばった記憶がある.小中高を通じて,この年が一番思い出に残っている.

しかし,それからは継続できなかった.いつのまにか,書きためたワンデーノートもなくなってしまった.再び書くきっかけに出会うのは,大学1年生のとき.高校生の延長にいた私にとって,大人びてみえた一人の先輩が,あるとき日記を勧めてくれた.

物は試しと,新潮文庫の”マイブック”を手に取る.文庫本サイズで,無地のページに日付だけが振ってある.今その本を開くと,縦書きでびっしり埋まっている.と同時に,空白のページも目に入る.1頁1日で,どうも書く量が多く,負担になってしまったよう.

2年目は,ペイジェムメモリー.反省を活かして1頁2日の日記帳を選んでみる.日記の習慣は定着してきたものの,まだ多さを感じる日々.書店に足を運び,日記帳をひたすら品定めする.大きすぎず,小さすぎず.ようやく選んだのは,博文館の3年連用日記帳.

1頁2日の3段組み.2年目からは,去年の自分が何を書いていたかがわかる.日記を書くメリットの一つは,経験を積み重ねられること.読み返せば,自分の試行錯誤がみてとれる.気持ちの波を,安定する手助けになる.

もう一つ,手書きの効用もある.書く機会の減少で漢字を忘れてしまう今日,日記は身近な対策になる.そして,日記帳を選ぶのが楽しくなればもう習慣になっている.黄緑,水色を選んだ私は,次は紅色を求めるつもり.

私の日記帳のルールは,翌日書くことと,よいこと一つ.一晩寝ると,記憶や考えが整理される.よかったことを書くのは,ネガティブになりすぎない予防線.あとは,特に決まりはない.人に見られるものでもないので,各人に適した方法があるはず.

小3からおよそ17年.7年間の日記習慣で,私の”合格シール”は何枚たまっただろう.当時の先生に再会できたなら,賞状をいただけるだろうか.それとも,まだまだ足りないよ,とおっしゃるだろうか.

2016/01/31

環境に優しい?

大学入学から4年間,環境サークルRNECSで身近な環境活動を行ってきた.活動を通じて他大学の学生,環境NGOや市役所の方とお話しすることもあった.そうした活動の中で,私の見方を変えたいくつかの話を紹介する.

はじめは,環境にやさしいという言葉.環境サークルが活動を発表し合うコンテストに参加したときのこと.ある団体がプレゼンの中で,「人にやさしく,環境にやさしい~さん」というキャッチフレーズを使った.

プレゼン後の審査員が所見を述べる.一人の審査員が諭すように伝える.「環境にやさしい,という言葉はあまり使ってほしくない.まるで人間と地球が対等のようであり,環境に関わる人の使う言葉としてはふさわしくない」

そのメッセージは,まさに自分が感じていた違和感でもあった.人間と地球が対等であれば,やさしく接することも,厳しく接することも許される.しかし地球の存在に比べれば人間は非常に小さく,むしろそれ以外の生命や物質で地球は満ち満ちている.

例えばある家庭において,両親が子どもにやさしい,は有りえても,子どもが両親にやさしい,と言うことはできない.それは両者の立場が明らかであり,通常子どもは親を敬い従うことが求められるからである.人間と地球環境との関係は,子どもと親との関係にたとえられる.

環境へ配慮した,環境負荷を低減した,言い方はどうあれ,人間の環境に対する立場をわきまえなければならない.地球のバランスを崩さないように配慮をすることが,人間に求められているのではないか.

次に,環境活動としてよく知られているリサイクル.NGOの方が飲料品について話してくれた.容器として用いられるペットボトルとアルミでは,リサイクルのコストが異なる.アルミニウムはリサイクルの優等生.原料のボーキサイトから精製するよりも,リサイクルして再びアルミニウムにする方がコストが抑えられる.

しかしペットボトルは,リサイクルに大量のコストがかかってしまう.成形が自由にでき,適度な強度をもち,そして安価に生産できる素材の優れた性質が,かえって再生後の用途を限定してしまう.ペットボトルはリサイクルするよりも,新たに作った方が安いといわれる.

もし自販機で缶とペットボトルが陳列されていたら,缶を選びリサイクルする方が,環境負荷が小さいわけである.しかし,とNGOの方は続ける.「ビンカンも可能な範囲で利用を控えるべき.なぜなら水を輸送するコストは大変大きいから.」

例えば水筒を持ち歩けば,自宅の水道を利用することができる.水道はインフラとして整備されており,最も環境負荷を小さくできる.現実には水を輸送するために,ガソリンを使いトラックが長距離を移動する.ときには外国から飛行機で運ばれる.

近ごろ商品表示に二酸化炭素発生量を記す試みがあるけれど,私としてはむしろ,使用した水の量を示すべきだと感じている.気体の二酸化炭素より液体の水の方がイメージしやすいし,いかに多くの水が使用されているかを知ることができるからである.

最後に,環境配慮のひとつの方策であるリユース.レジ袋の代わりにマイバッグが推奨されるように,割り箸の代わりにマイ箸を持ち歩こうという試みがある.しかしマイ箸には,洗わないといけない手間や,外食時の衛生面の問題があり,マイバッグほどには普及していない.

こうした問題点を解決する手段として,私が出会った人は,間伐材の割りばしを持ち歩いていた.マイ箸ではなく,間伐材の割りばしであれば,衛生面はクリアできるし,日本の林業の助けにもなる.Win-Winだと素直に納得し,私も実践を始めた.

ペットボトルや缶飲料を控えることは,嗜好を制限することで,現実的には難しい.しかし間伐材の割り箸使用には比較的メリットを感じる.人が生活する上で,環境負荷を避けることはできないけれど,その環境負荷を低減する選択肢は無数に存在する.無理なく,納得できる環境活動を選択する人が,環境に”やさしい”と私は考えている.