2020/11/23

理学部を選んで(その2)

その1にもどる)博士課程への進学者は約2割で,当初約50人だった同期も10人程になる.学部や修士の友人の多くが卒業し,環境サークルつながりの友人も同様に卒業する.改めて研究メインの日々を実感し,経済的な不安に追われながら論文公表を目指す.この時期は大量に論文を読み,留学生ともよく会話し,英語漬けの日々となる.

博士課程2年次で初めて論文を投稿し,査読を経て3年次の始めについに受理される.教員,周囲,家族のサポートのおかげで初めて研究の醍醐味を知ることができたような気がした.研究航海で感じた"あこがれ"とは明らかに違う経験だった.しかし残念ながら,あまりに遅い論文公表になってしまった.

今度は博士課程修了という節目が待ち受ける.博士論文を提出して晴れて「博士」の称号を得ることは,同時に「学生」の身分を失うことを意味している.学生であれば応募できた様々な支援も修了した瞬間になくなってしまう.博士課程の同期が修了後の進路を決めていくなか,私は無給の研究生として大学に残ることになる.

大学内でパート勤務をしながら研究を進める.経済的な不安は大きくなっていく一方,2本目の論文が受理される.並行して複数の公募に応募し,幸いにも半年間で次の進路が定まる.つくばで1ヶ月研究し,その後高知大で働き始める.これまでを思い返せば本当に有り難い転機だった.

つくば・高知で研究することは,それまで東北大一筋だった私にとって,一気に多数の研究者と知り合う契機になった.特に全国の同期と知り合えたことで,研究のあれこれを相談しやすくなった.関わる研究分野も広くなり,自身の研究の位置付けを改めて考えさせられた.

そして同時に,活発に動ける(世界をフィールドに共同研究を展開していく)研究者には敵わないという気持ちも感じ始める.環境サークルで感じた気持ちとよく似ている.しかし急にあこがれの人にはなれないし,自分らしく研究することにも意味はあるのだと思い直す.

高知で研究を継続し,3本目の論文が受理される.「3本書いたら1人前」というメンターの言葉に,遅まきながらハードルを超えられたように思う.次はいよいよ,高知の先の進路を意識し始める.公募に応募しながら,海外学振や学振PD(2〜3年間奨励費や研究費が得られる)に申請する.

そして今年,縁あって秋田大で働き始めることができた.任期無の研究職であり,1つの節目のように思う.これからは研究だけでなく教育も大きな役割になる.これまでの試行錯誤と同じように,今後も迷いつつ相談しつつ進んでいくのだと思う.

立ち止まって振り返るなら,高校当時の私の興味はやはり漠然としていて,その危うさに気付かないまま大学・学部を選択し,サークル活動を通じて現実とのズレを知ることになった.気候変動に関する政府間パネル(IPCC)を例にとれば,全3つの作業部会(自然科学的根拠・適応策・緩和策)に興味があったようなもので,今では自然科学的根拠に1番の関心がある.

違う大学・学部を選んでいたら,当然異なる人生を歩んでいたと思う.そう考えると高校生の進路選択はとても重要で,自然vs.人間のように単純に決めてはいけないはず.同様に大学生の進路選択も重要で,大学教員という立場は直接・間接的に関わることになる.これまで私がサポートを受けてきたように,今度は私自身がサポートに回ることができたらと思う.

理学部を選んで(その1)

「自然に興味があれば理学部へ,人間に興味があれば工学部へ」そう聞いた高校生の私は,迷うことなく理学部受験を決めた.当時,愛知万博を訪ねたことや京都議定書のニュースに触れたことで,地球環境に興味を持つようになった.もう少し人間に興味を持ってもよかったし(今は興味あり!),理学部では就職の幅が狭まることを真剣に考えてもよかった.

それでどこの大学を受験するか.進学校の雰囲気もあって前期は東大,後期は東北大を志望した(名古屋大は後期の設定がなかった).センター試験を受けて,東大の足切り点数が公表される.およそ5点,足切り点数に達していなかった.前期試験は受けられず,浪人も覚悟して3月の仙台へ.

後期試験の受験会場は暗い雰囲気が立ちこめていて,しかし前期の分も一生懸命筆記試験に臨む.結果発表日の朝,自宅のパソコンから合格者一覧にアクセスし,そこに自分の受験番号を見つける.喜びもつかの間で,すぐに引っ越し準備が始まる.

大学生活がスタートし,理学部地球科学系の入学者約50人と顔を合わせる.化石好きや鉱物好きの人が多い印象で,自分はそのどちらでもなかった.幸いか高校で地学を履修した人は少なく(私も物化),大学の地学に対するスタートラインは大きく違わないようだった.

同じころ部活・サークル選びがあって,「地球環境」に興味の集中していた私は環境活動サークルを見学する.そのサークルで先輩や同期と話すと,私のように理学部の人もいれば,経済学部や工学部の人もいる.地球環境=理学部だった当時の私にとって,現実はイコールではない(地球環境は広い分野に及ぶ)ことを実感して,高校でそう気付いていたら違った進路選択をしたかもしれないと感じた.

そうして進路に若干の迷いを覚えながら,地学関係の講義を受講し,一方で地域や大学の中で環境活動(例えば資源回収やごみ分別)をしていく.学部3年次で地球科学系は岩石鉱物・人文地理・地質古生物にコースが分かれるため,まずその選択を迫られることになる.各コースの実習をひと通り体験してみて,地質調査に一番興味を持てたことから,地質古生物コースを選択する.

しばらくして卒論課題を選ぶ段階になる.ちょうど「過去の環境変動」を扱う課題がいくつかあり,教員の話を聞いた上で「微化石」を主対象とした研究テーマを選択する.それまで微化石というキーワードは十分に知らなかったので,やはり環境変動という言葉に惹かれたのだと思う.

卒論で忙しくなる中,環境サークルの活動も続けていた.その頃感じていたのは,活発に動ける(地域や大学を巻き込むような)人には敵わないなあという気持ちだった.環境サークルは全国にネットワークがあり,そこでは起業家や環境NGOに就職する人もいる.進路に迷いもある中で,環境活動を仕事にすることは向いていないように感じた.

なんとか卒論を提出して,周囲と同じように修士課程に進学する.幸運にも国際的な研究航海に乗船する機会を得て,初めて海外を経験すると同時に世界トップクラスの研究者を目の当たりにする.彼らが目を輝かせて研究する姿に,英語は分からないものの,漠然としたあこがれを感じるようになる.帰国してから周囲に就活という雰囲気が漂いはじめても,それよりも博士課程への進学を希望するようになる.

今振り返れば,英語論文も公表していないのに,とても見通しが甘かったと思う.学振の特別研究員(博士課程において奨励費や研究費が得られる)は不採用Aで,根拠のない期待の分,とても落ち込んだのを覚えている.とはいっても目立った就活はしておらず,そのまま博士課程に進学する.(その2につづく